カテゴリー別アーカイブ: 古代エジプトの遺跡


ハトシェプスト女王葬祭殿

ハトシェプスト女王葬祭殿/ルクソール西岸

ハトシェプスト女王葬祭殿/ルクソール西岸

デイル・アル=バハリにあるハトシェプスト女王葬祭殿は、背後に切り立ったアル=クルンと呼ばれる崖を借景とした壮大な建築である。

ハトシェプスト女王は新王国時代第18王朝の女王で、好戦的なこれまでの王と違い、平和外交に徹した。

3段のテラス式の葬祭殿には、女王にまつわるさまざまな場面が描かれているが、なかでも第2テラス南柱廊には、女王のプントへの交易の様子やもらった貢ぎ物などが細かに描かれ、当時の国際間の交流を知る貴重な資料でもある。

南柱廊のさらに南には、ハトホル女神に捧げられた祠堂があり、牛の耳をした女神の顔をつけたハトホル柱が立つ。

デイル・アル=バハリとは、アラビア語で「北の修道院」を意味し、他にも中王国時代第11王朝のメンチュヘテプ2世墓などがある。

王家の谷

ナイルの涸れ谷に造営された王家の谷/ルクソール西岸

ナイルの涸れ谷に造営された王家の谷

ルクソール西岸の涸れ谷の奥深く築かれた王家の谷は、新王国時代の歴代のファラオたちの眠る谷である。

第18王朝のファラオたちは、古王国時代や中王国時代の伝統だったピラミッドの建造をやめ、涸れ谷を穿って岩窟墓を造り、王の葬儀を行うための葬祭殿は、墓とは離れた場所に別々に造営するようになった。

王家の谷の発見されている最古の墓は、新王国時代第18王朝のトトメス1世、最も新しい墓は、新王国時代第20王朝のラムセス11世のものである。王家の谷からは、現在62基の墓や竪坑が発見されている。

ルクソール西岸

空から見たルクソール西岸の風景

空から見たルクソール西岸の風景

日が没するナイル川西岸は、古代エジプトでは墓域が形成される地であった。ルクソール西岸も同様に、現在までに約800基の墓が発見されている。

これらは墓泥棒に見つかりにくいように、自然地形を利用して崖や谷あいに造られた。新王国時代のファラオたちの墓である「王家の谷」はその代表であり、その王妃や王子たちの墓「王妃の谷」、大臣や側近らの「貴族の墓」などがある。

また、王の葬儀を行った葬祭殿、それらの王墓を造営した職人たちの住居址など、多くの遺跡が点在している。

ルクソール博物館

ルクソール博物館/ルクソール東岸

ルクソール博物館/ルクソール東岸

1975年に開館したルクソール博物館は、遺物の配置や照明の当て方などに工夫の凝らされた、近代的な博物館である。

各地の遺跡から出土したものは、それぞれの地域で保管し公開していこうという方針によりつくられた博物館で、ルクソール東岸および西岸の遺跡から出土した代表的な遺物が収蔵、展示されている。

トトメス3世の彩色レリーフや、アメンヘテプ3世の頭部像、ハトホル女神像など、貴重な遺物が数多く見られる。カルナク神殿とルクソール神殿の中間に立地している。

ルクソール神殿

ルクソール神殿/ルクソール東岸

ルクソール神殿/ルクソール東岸

カルナク・アメン大神殿の付属神殿として造営された神殿。現在見られる神殿の大部分は、新王国時代第18王朝のアメンヘテプ3世と、19王朝のラムセス2世によって建立されたものである。

年に一度のオペトの大祭のときには、カルナク・アメン大神殿の神像が輿に乗せられて、ルクソール神殿に運ばれた。第1塔門の前から北に延びるスフィンクス参道は、2つの神殿を結ぶ祭りの名残りである。

神殿には、イスラーム時代になってから一部にモスクが建造され、古代と現代の信仰の姿が交差する不思議な情景を作り出している。

カルナク神殿

カルナク神殿/ルクソール東岸

カルナク神殿/ルクソール東岸

アメン・ラー神の総本山とも言える神殿。アメン大神殿、メンチュ神殿、ムト神殿の3神の聖域を総称して、カルナク神殿と呼ばれている。中王国時代からギリシア・ローマ時代まで2000年にわたり、歴代の王によって神殿や記念碑などの増改築が繰り返されてきた。

特にアメン大神殿は、1辺500~700mにもおよぶレンガの周壁で囲まれた広大な神殿で、幅113m、高さ43mのエジプト最大の塔門や、134本もの巨大な柱が並ぶ大列柱室、トトメス1世のオベリスクなど、エジプトの遺跡の圧倒的な大きさを集約したかのような見どころが数多くある。

デンデラ

ハトホル神殿外壁のクレオパトラ7世のレリーフ/デンデラ

ハトホル神殿外壁のクレオパトラ7世のレリーフ

古代エジプト名はイウニト。初期王朝時代からの遺跡も多いこの町には、ギリシア・ローマ時代に建てられたハトホル神殿が残されている。

神殿の南の外壁には、クレオパトラ7世と、ローマのユリウス・カエサルとの子、プトレマイオス15世カエサリオンの姿が刻まれ、絶世の美女と謳われながらも資料の少ないクレオパトラ7世の姿を見ることができる。

ハトホル神殿本殿には、天井も残り、内部は薄暗いが、古代の明かり採りの方法や、当時のままの神殿を知ることができる稀少な建造物である。

また、天井には黄道12宮を含む天体図なども描かれ、古代エジプトの天文学についての貴重な資料となっている。

アビドス

アビドス・セティ1世葬祭殿

アビドス・セティ1世葬祭殿

古代エジプト名はアブヂュウ。第1中間期から中王国時代初期になると、王家や貴族だけでなく民衆の間にも、死んだら再生復活できるというオシリス信仰が普及し、オシリスの聖地アビドスには、家族ステラを納める祠堂を建立するために巡礼を行う者が後を絶たなくなった。

また、オシリスはエジプト最初の王と考えられていたため、王家も神殿や遺体を納めない空墓(セノタフ)を盛んに造営するなど、古代エジプトでは極めて重要な聖地であった。

セティ1世は、この地に葬祭殿を造立。現在では、角柱の美しい第2柱廊より奥の部分がよく残る。精巧な彩色レリーフが施され、また歴代の王名を列記した王名表も刻まれている。神殿奥はオシレイオンに続いている。

アマルナ王宮址

テル・アル=アマルナの北王宮

テル・アル=アマルナの北王宮

アクエンアテン王は、ナイル川東岸に、南北6kmにおよぶ計画都市を建設した。中央に位置するセントラル・シティーには、東西約750m、南北約300mの周壁に囲まれたアテン大神殿や王の邸宅、倉庫、庭園などが造られ、また、貴族の邸宅や彫刻家トトメスの工房なども置かれた。

市街を南北に貫く王の道を北上すると、東西約140m、南北約115mの北宮殿へ出る。中央には45m×35mの池が配され、北東隅には庭園、中央東奥には玉座の間などが築かれた。王の道はさらに北市街へも続いている。

また、王宮址からは、楔形文字の刻まれた粘土板「アマルナ文書」が多数出土した。王宮の東側の崖には、アクエンエテン王に従った貴族たちの岩窟墓が多く残されている。

テル・アル=アマルナ

テル・アル=アマルナのアテン神殿

テル・アル=アマルナのアテン神殿

テル・アル=アマルナは、古代名をアケト・アテン(アテンの地平線)といい、新王国時代第18王朝のアクエンアテン王(アメンヘテプ4世)の時代に都が置かれた地である。

アクエンアテン王は、それまでのアメン神を中心とする多神教を廃止し、アテン神を唯一の神とする一神教を採用、宗教改革を断行した。これは、エジプト王家に対して大きな勢力を築き上げたアメン神官団と、たもとを分かつためであったと考えられている。改革があまりに急進的に過ぎたため、結果的には従来の勢力や国民の反発をあおっただけで、王の治世はわずか10年ほどで幕を閉じることとなった。

しかし一方この時代、全く新しい芸術表現「アマルナ様式」が誕生、花開いた。型にはまらないのびやかな表現は、絵画や彫像などで数々の名作を生んだ。