呼称

道を歩いていたり、駅などで立っていると、私のことを「おい、ヨシムラがいるぞ」とか、「ヨシムラが歩いている」、「あれって、ヨシムラサクジじゃない」、「サクジがいるいる」と呼び捨てにする人がいます。人は何を言ってもいいのですが、少しひどいのではないかと思うのです。何の関わりのない人に、呼び捨てにされる謂われはないと思うわけです。「いや、あなたは固有名詞化されているのです」とか、「歴史上の人物になっているのです」とか、「有名人は仕方ないでしょう」と言う知人がいますが、それはそれとして、生身の人間として抵抗があります。
また、バーなどで「あなた何ていうお名前」と聞かれ、「吉村作治です」と答えた後、「吉村さん」、「吉村さん」、と連発して「さん」付けで呼ばれることに、違和感を持ちます。と言うのは、名前を言った後に、「早稲田大学の教授です」と職業を言っていますから、少なくとも「先生」と言うべきでしょう。別に「先生」と呼んでもらわないと「軽蔑されている」と感じているのではなく、「大学教授」は学生に教えているわけだから、「先生」なのです。世の中、「先生」がインフレを起こしていますが、「先生は職業的蔑称だ」とジョークで言っています。「人を教えている人」すなわち「先生」なんです。もっとも、中国語では、「先生」は「さん」の意味ですが。「先生」は、ちっともえらくないんです。「社長」とか「部長」の方がずっと偉いんですが、世の中では違う風に考えているようです。
私は、弟子にも、中学校でも高校でも教職を持ったら「先生」と呼んでいます。弟子として私の下にいるときは、「△△君」です。男も女も「君」です。いったん社会人になれば「××さん」、教員になれば「先生」です。ただし、公的場所で相対するときや書面での呼び方は、相変わらず「○○君」です。その使い方を間違えると、誰もが「先生」である中学校の教員室のような場では、混乱してしまいます。弟子に囲まれているとき、「先生」は私だけなんです。
私は、子供にも、1人でも他人がいるときは「先生」と呼んでもらっています。公私混同していないことを他人にわかってもらうためです。家族だけの時には、「パパ」「ダディ」でいいんです。
こういった区別は家庭教育でなされるべきなんでしょうが、今は無理です。学校でも教えません。私は研究室に入った途端、まずこれから教えます。秩序の第一歩ですし、これがなされていないと、仕事がうまく進みません。理屈抜きで行うことで、例えば信号などは、社会の定理なんです。社会は人の位置づけから始まることをまず教えないので、おかしくなるわけです。

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