カテゴリー別アーカイブ: 古代エジプトの遺跡


ベニ・ハッサン

崖に築かれた岩窟墳墓群/ベニ・ハッサン

崖に築かれた岩窟墳墓群/ベニ・ハッサン

カイロから270kmほどナイル川を溯った中部エジプトの町ベニ・ハッサンには、第1中間期から中王国時代にかけて、多くの岩窟墳墓群が造られた。墓を造営したのは、古王国時代の終焉後、国内が混乱の最中にあったときに力を伸ばしてきた地方州侯たちである。

斜面に南北横一列、全部で39基が造られ、そのうちの12基に自由で生き生きとした壁画が描かれている。この伸びやかさは、中央に縛られることのなかった、この時代に特徴的なものであった。中でもレスリングのモチーフはその好例で、様々な組み手が躍動感いっぱいに描かれている。

アメンエムハト3世のピラミッド

アメンエムハト3世のピラミッド/ハワラ

アメンエムハト3世のピラミッド/ハワラ

中王国時代第12王朝のアメンエムハト3世は、ハワラとダハシュールにピラミッドを築いた。ハワラのピラミッドは、底辺部の1辺の長さ100m、高さ58m。外側を覆っていた石灰岩の化粧石は、ローマ時代には既に持ち去られてしまった。現在は、日乾レンガ(泥レンガ)がうずたかく積まれた小山のような状態である。

ギリシアの歴史家ヘロドトスが記した『歴史』によれば、ピラミッドの南側には、かつてギリシア人たちがラビリントス(迷宮)と呼んだ葬祭殿が造られていたらしい。ラビリントスには24の中庭があり、部屋数は1500室にも及んだという。

ファイユーム

エジプトの穀倉地帯を流れるバハル・ユーセフの運河/ファイユーム

エジプトの穀倉地帯を流れるバハル・ユーセフの運河/ファイユーム

ファイユーム地方は、カルーン湖の南に広がる楕円形の盆地で、エジプトの大穀倉地帯である。エジプト最古の新石器が発見されたことから、エジプトの農耕発祥の地とも考えられている。

中王国時代になって、都が近くのリシェトに移されたのを契機に重要視され、第12王朝のセンウセレト2世やアメンエムハト3世らが運河を整備、耕地の開拓や拡張に努めた。古代エジプトの運河「バハル・ユーセフの運河」は、現代でもこのエジプトの穀倉を支えている。

また近くのカルーン湖には、かつてワニも生息しており、この地方の中心地アル=ファイユームには、ワニの神セベク神を祀った神殿も建てられ、信仰を集めていた。

崩れピラミッド

崩れピラミッド/メイドゥム

崩れピラミッド/メイドゥム

メイドゥムに立つピラミッドで、古王国時代第3王朝のフニ王が着工し、スネフェル王が建造を引き継いだと言われる。建造当時の姿が残っていれば、最古の真正ピラミッドとなったはずだが、岩盤がもろかったためか化粧石が崩落し、土台となった7段の階段ピラミッドが露出している。周囲には崩落した土砂が堆積し、砂山の上に台形の塔が立っているかのような特異な風貌である。

完成した当時の姿は底部部の1辺144m、高さ92m。露出している内部の石積みも磨き上げられているなど、謎の多いピラミッドでもある。

赤ピラミッド

赤ピラミッド。古代名は「輝くピラミッド」/ ダハシュール

赤ピラミッド。古代名は「輝くピラミッド」/ ダハシュール

古王国時代第4王朝のスネフェル王によって建造されたピラミッドの1つ。同じダハシュールに立つ屈折ピラミッドとは対称的に、化粧石はすべて持ち去られ、赤色系の石灰岩が露わとなっていることから、赤ピラミッドの名で呼ばれる。

底辺部の1辺220m、高さは99mで、約43度の傾斜角度は屈折ピラミッドの上部の角度と一致しており、屈折ピラミッド建造で得られた知識が生かされているといえる。緩やかな傾斜角度のためにやや小さく見えるが、ギザのカフラー王のピラミッドより容積は大きく、クフ王のピラミッドに次ぐ、エジプト第2の大きさを誇っている。

また断面の形が二等辺三角形をした、最古の真正ピラミッドである。

屈折ピラミッド

屈折ピラミッド

屈折ピラミッド。古代名は「南の輝くピラミッド」/ ダハシュール

古王国時代第4王朝のスネフェル王によって建造されたピラミッドの1つ。

下部の傾斜角度約54度に対し、上部の傾斜角度は約43度しかなく、その名の通り、途中で大きく屈折しているのが特徴である。下部の急角度のまま積み上げられると崩壊の恐れがあるため、途中で設計変更をしたと言われているが、本当の理由は解明されていない。

底辺部の1辺188.6m、高さ101.15m、化粧石の残りもよく、独特の風貌に美しさを加えている。

また、北面と西面の2ヵ所に入口があり、それぞれ異なる玄室へたどり着くようになっている。

ダハシュール

湿地からのダハシュール遺跡の眺め

湿地からのダハシュール遺跡の眺め

ダハシュールは、スネフェル王の2基のピラミッドや、アメンエムハト2世、センウセレト3世、アメンエムハト3世といった中王国時代のファラオのピラミッドが林立する、一大ネクロポリスである。

近年、早稲田大学古代エジプト調査隊により、新王国時代第18王朝のファラオ、ツタンカーメンにゆかりのある人々の墓域が発見され、時代を下ってもなお、重要な地域であったことが確認された。

ダハシュールは軍事エリアに入っていたため、最近まで研究者や観光客の出入りに制限があったが、現在では一般に開放されており、重要なピラミッド群を間近にできるようになった。

メンフィス

メンフィスのハトホル神殿跡

メンフィスのハトホル神殿跡

古代エジプトは、南の上エジプトと北の下エジプトとに大きく分かれるが、今から約5000年前の初期王朝時代、ナルメル王が初めて国土統一を行ったとき、都が置かれたのがメンフィスであった。

現在では遺跡のほとんどは崩壊し、プタハ神殿跡がわずかに見られるだけである。神殿の南入口にあったと思われるアラバスター製のスフィンクスは、全長8m、高さ4.25m、新王国時代第18王朝の頃のものである。また、プタハ神殿は聖牛アピスの飼育でも知られ、牛をミイラにするための解剖台も見つかっている。

その他見学できる出土品には、神殿の改築を行った第18王朝のファラオ、ラムセス2世の石灰岩製の巨像もあり、当時の彫像技術の高さを知ることができる。

シェプセスカフ王のマスタバ墳

シェプセスカフのマスタバ墳

シェプセスカフ王のマスタバ墳。古代名は「清め られたるピラミッド」/サッカラ

メンカウラー王の後に即位した、古王国時代第4王朝最後の王シェプセスカフは、自らの墓をサッカラに建造した。「マスタバ・ファラウン(ファラオのマスタバの意)」と呼ばれるその墓は、ピラミッドではなく、底辺部100m×72mの2段になった巨大なマスタバ墳である。最下段は赤色花崗岩で作られているが、本来は良質石灰岩で覆われていた。

マスタバ墳とは、ピラミッドより単純な構造で、基本的に深い竪坑を上部構造物で覆ったもの。先王朝時代の王たちはマスタバ墳に埋葬されていたが、第4王朝には、ピラミッドを建造するのが主流であった。

その中で、なぜシェプセスカフ王が伝統的なマスタバ墳の形態に逆戻りしたのかは、未だ謎である。

メレルカのマスタバ墳

メレルカの姿

マスタバの壁面に刻まれた被葬者メレルカの姿

テティ王のピラミッド北西側に造営された、宰相メレルカの巨大なマスタバ墳は、メレルカ夫妻と3人の息子の家族墓である。

底辺部は40m×24m、内部は30数室に分かれ、21室がメレルカの部屋、5室が息子たちの部屋、数室が妻の部屋となっている。

偽扉の前に置かれた石灰岩製の、2mを超えるメレルカの像は、マスタバ墳の大きさとともに、テティ王の王女と結婚した彼の権力を物語っている。

メレルカの墓は精緻で美しいレリーフでも知られ、カバ狩りの情景や、牛をほふる人々など、当時の人々の暮らしを生き生きと現代によみがえらせてくれる。