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尖閣問題を考える

10月4日ブリュッセルで行われていた、アジア欧州会合(ASEM)首脳会議の夕食後、菅直人首相と中国の温家宝首相が廊下の長椅子で会談を行った、というニュースが出ました。一見よい兆候と捉えた方がいますが、実は正反対で、このことにより、今回の事件が公式に尖閣諸島の領有権問題を国際化し、世界で考えてみようということになってしまったのです。いわゆる「やぶへび」となってしまったわけです。
中国にとってみれば「棚からぼたもち」であり、「来たか長さん待ってたほい」状態となってしまいました。陸上に例えるなら、元は日本の私道にいたパトカーに中国の商用車がぶつけたということで、国際的なポリスが存在すれば衝突事故として届け、あとはポリスに任せれば終わった話です。ところが、その事故よりも、事故が起きた場所が日本の私道ではないという理不尽な話にすりかわってしまったわけです。そこで日本が、国際世論に訴え中国の理不尽さを指摘しても、2国間のトラブルに手を出す国はいないわけです。愚かな日本外交と言わざるを得ません。
菅首相は、小沢氏のときもそうですが、直接当事者が会って話せば解決するという幻想をお持ちなのでしょう。全くずれています。直接本人同士が本心を語ればわかるのだったら、外交はいりません。国と国、人と人の間には利害があり、それがぶつかるわけですから、話し合ってうまくいく方が稀なんです。ですから、第三者を間に入れて、お互いの妥協点を探りあい見つけ出し、最後に両者が会い、手打ちとなるわけなのです。交渉術の初歩です。今回は、ともかく菅首相の会いたいという気持ちが前面に出てしまい、中国側に足元を見られ、中国の言うようにされてしまったのです。そして、尖閣の領有問題を国際化されてしまったのです。しかしそれに気付かず、会えたことに喜ぶノー天気ぶりにあきれてしまいます。
もともと今回の件は、失敗が続き過ぎました。9月7日に衝突事故が起きたとき、事情聴取をし、即座に国外追放とか国外退去とすべきだったでしょう。今までも何回もこうした処置をして、事を表沙汰にしなかったのです。国外追放とか退去の意味は大きいです。それを相手が受け入れれば、そこは自分たちにとって国外(日本領)と認めるわけです。そして、正式に外務省から在日中国大使館に、遺憾の意を表した書状を出せばよかったのです。
次に、船長の祖母が死んだという知らせがあったら、そこで祖国へ返すべきでしょう。中国はそういうことを大切にする国です。人道的にやるべきでした。ぶつけた経緯が映ったビデオを見せて、反省文のひとつも書いてもらえばいいのです。
そして3つ目に、9月10日に拘留延長請求が那覇地検から地裁に出されたとき、事情聴取が終わったので、中国大使の保証をとった上で返すのがよかったのです。大使は船長に面会しているのですから、大使の面子を立てればいいのです。
そして9月19日に、拘留10日延長(9月20日~29日)を決めるという愚かさを見せたのです。海の上とはいえ、交通事故でこんなに長く拘留できないはずです。いくら教条的に国境侵犯だと言っても、本人はそう思っていないし、これは国の外交の問題でしょう。地検や地裁の問題ではないはずです。マニフェストで主張している政治主導はどうなっているのです。外交は国の問題です。外交の素人に判断させるべきではないのです。
にもかかわらず、9月24日、何の理由もなく地検は、「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮したよ」と言っていますが、これも越権行為。行政機関の地検が言うべきではない、国政に口を出しています。またもや政治主導はどうなったのですか。しかも、首相をはじめ外務大臣すらも「検察の独自の判断に任せた」という、自分たちの責任逃れととられるコメントをしているのですから、あきれます。こんな人たちに国政を任せていていいのでしょうか。答えはNO!です。一国の外交を、担当部局でない一地方の検察が判断するなんて、政権担当能力の放棄です。一部マスコミは、首相も外相も知っていたと言っていますが、本人たちが知らないと言っているのですから、そうなんでしょう。
そして、帰国した船長は英雄となります。その後、首相は直接中国との対話を求めるのです。おかしいのです。向こうが犯罪を犯したのですから、向こうからコンタクトしてこさせなければならないのです。土下座外交と屈服外交と言われても仕方ないです。悔しいです。第三者(例えば米国)に仲を取り持ってもらって、対等に事の収拾を計るべきです。しかも、隠密に中国に行った細野氏はマスコミに見つかり、表面的には何の成果も上げることがなかったのです。この間、中国にはやりたい放題の悪さをされました。しかし何の対抗手段も行えず、ただただ嵐の止むのを待っていただけ。無為無策の状態です。しかも、こんな重要な局面の在中国日本大使は、財界で実績があったといっても、外交では素人で外交官でないのですから、困ってしまいます。
外務省にはチャイナスクールというのがあると聞きます。どうしてすぐそこにタスクフォースを作り、隠密にやらなかったのでしょうか。やってもできなかったのでしょうか。もし、やる気がない、やれないならば、現在の外務省の職員は大幅に変えなければならないと思います。しかし、私は今の外務省の人はできると思います。政府の指示がうまくいっていないと思うのです。外務官僚にやる気を起こさせないのでしょう。
ただ、衝突のときのビデオを公開しなかったのはよかったと思います。何かひとつくらい切り札をもっていないと、これからの交渉ができにくくなるでしょうから。ともかく、日本領である尖閣という国益を守るために、これから外交をやってほしいのです。国民はマスコミにあおられて、交渉ごとの真相を知りたがりますが、裏事情を私たちに知らせることより、ともかく国益を守ってください。
今回の教訓として日本は、資源も原材料も、なおかつ生産、マーケットすべてのことを中国に依存することを改めていかないと、これからの日中関係は、何をやっても負けてしまうでしょう。「今回はいい勉強になりました」では済みませんよ、民主党。

久しぶりに絵を描きました

土曜、日曜に公式スケジュールが入っていないというのは、1年に2、3回しかありません。先日、そういう珍しい土日がありました。そういう、世の中が連休という日々は、とても幸せです。しかし、寝ようとか休もうとか、思ったことはありません。きっと、休もうと思えばいつでもできる自由業の身だからでしょう。
そこで、まとまった時間が空いたとなると、仕事の虫がむらむらと起きてきます。まず、まとまった原稿書きです。通常、1日に書ける量は、朝の時間を利用しても、400字詰め原稿用紙に5枚がいいところです。朝7時から9時をデスクワークにしていますが、前日の残りのメールや郵便の返事、作らなければいけない書類、その日の予定の資料読み、調べもの、論文・報告書のチェックと、文章作り、ブログ・コラム・エッセイ書きなどなどあって、単行本や連載などのまとまったことができないのです。
そして、一番大きな、絵や書、陶器の絵付けがあります。陶器は伊万里に行かないとできませんので、別にスケジュールに入れますが、絵と書は自分の研究室でできます。そこで、この2日を使って、思い切って絵を描きました。久しぶり、約4ヶ月ぶりでした。最初の3時間は、今まで描いたものの見直し(写真を見て)、今回の絵の構想、そして絵の具を溶いたりぬれ雑巾を用意したり、絵を描く机の周りの片付けなど、雑用があります。よって、第1日目の午前は準備で終わってしまいます。
私の絵は半抽象画で、音を絵にするというテーマがあり、他の人には理解してもらえないものです。そして、水彩画ですから滲みが勝負なので、何日も画用紙で試します。それから1日半かけて描くのですが、数は半端でなく多く描きます。1日半も描いていますと、アイディアと腕が枯れてしまいます。しかし、今回も20枚は描きました。

敬老の日

9月20日は敬老の日でした。私もすでに67歳を過ぎ、ひたすら70歳へと向かっています。しかし、敬老されているという感じはいたしません。先日、私の高校のときの親友が亡くなったとの知らせが来ました。「そんな年になったのだなあ」としみじみ思いました。誰でもが年をとります。年齢だけは公平です。しかし、世の中の扱いは不公平です。それもいいでしょう。
私も決して親孝行ではありませんでした。しかし、両親はそれなりに私に何の迷惑もかけずに亡くなっていきました。78歳で両親とも亡くなったのですが、私は何もしてあげることもなく、と言うより、ずっと心配をかけっ放しにして亡くなられてしまい、残念に思っています。私が両親にした親孝行といえば、精神的には、早稲田大学の専任教員になったことと、家を建ててあげたこと。そして、旅好きだった両親に、エジプトに2回、フランスに1回、香港と台湾に1回ずつ、海外旅行をさせてあげたことぐらいです。もらったものの方が多いです。それも、両親が70歳を過ぎてからでした。
私の2人の子どもは、きっと私が70歳を越しても何もしてくれないと思いますし、それでいいと思いますが、気になるのは、私の友人に「あなたは元気すぎて若やいでいるから、誰もが敬老どころか、いたわる気がおきないのだよ」と言われたことです。これを、ほめ言葉ととるか、憐れみの言葉ととるかは、難しいのですが、人間は死ぬまで敬老されないことが幸せというか、幸運なのだと思うことにしました。
私の長男に3人の子どもがいますが、決して「おじいちゃん」と呼ばせませんし、私も「孫」と言いません。「私の長男の子」です。そして、長男の妻に私のことを「お義父さん」と言わせません。
ともかく、人間は1人で生まれ1人で死んでいく覚悟を持たなければならないと思っているからです。というわけでしょう。未だに、幸か不幸か敬老されていません。しかし、今100歳以上の方が4万人以上日本にいらっしゃるとのこと。驚いてしまいます。

民主党党首選について

私は政治のことについて言及しないことにしていますが、今回の民主党党首選につきまして、九州福岡のRKB毎日放送の生番組「今日感テレビ」の中で意見を申し上げ、ご覧になっておられない方が多いと思いますので、その要旨を書かせていただきます。
まず、今回のは、民主党という政党の党首の選挙ということです。なのに、2人の候補者が新宿などの人の集まるところで、民主党員でもない人相手に演説をしていることに疑問を感じるのです。確かに、民主党は与党、その党首は総理大臣だから、国民にアピールするという理屈なのでしょうが、民主党員でない人は選べないのです。そして私たちは、昨年の衆議院選挙で国政を民主党に託したのですから、誰が党首でも任せるしかないのです。総理大臣へのリコールは認められていませんから。もし国民にアピールしたいという意志があるなら、解散してください。しかし、しなくても、昨年の総選挙のとき、民主党が出したマニフェストを色々変えたり、しなかったことへの不信を、今年の参議院選挙で国民は意思表示しました。マニフェストを守らないなら「民主党No!」です。よって、そのとき菅首相は総辞職し、マニフェストを守るという小沢氏へ政権運営を渡すべきだったわけです。こんな簡単な理屈がわからないなんて、笑ってしまいます。
次におかしいのは、民主党員には、国政選挙権のない外国籍の方がかなりいるそうで、そういう人の票で選ばれる党首って何なのだろうということです。民主党が野党ならいいということですが、どっちにしても、国を運営する人は国政選挙権をもっている人によってのみ選ばれるべきでしょう。
次に、政治主導ということです。これは、政治家が何でも決めてやるということですが、今、世にいわれている政治家って、立法府に所属している法律を決める人です。もちろん議院内閣制ですから、一部の人は行政に関わるとしても、基本的には立法に関わる人です。行政と立法は深く関連しているといっても、三権分立が基本です。よって、政治家主導は、行政に対する立法の権利侵害です。ましてや、1年生議員が行政の知識もない中、仕分けに口を出すなんて、笑って済ませられないのです。しかも、科学技術や学術を何十年もやってきた専門家に、浅はかな議論をお金の面だけで言うなんて、許しがたい暴挙です。と言うより、犯罪に近いとさえ思います。
また、菅首相がしきりと雇用を口に出していますが、その受け皿を作らず、雇用したら補助金を出すというバラマキは、すぐにデッドロックに乗り上げます。雇用は、強制されるものではありません。今日本は、働き口がないというのはウソで、失業している人の内、条件が悪いので働かないという身勝手失業者が少なくないのです。中途半端にお金で人助けができると考えているとしたら、まじめな国民に対し失礼です。今だって、まじめに働いているパートの収入の方が、ぶらぶら遊んで生活保護を受けている人より低いという現実です。それに加え、子ども手当て、高校無償化、農家の収入保証、高速道路無料化。すべて国家財政を考えない、人間を怠け者にするバラマキ主義、拝金主義の権化です。日本国民はまじめに生きていかなくなります。
ともかく、こういったことを民主党内で議論し日本のためにいい法律を作るのが、立法府にいる議員であることを忘れないでほしいものです。そして、行政官である役人には多大な税金を払っているわけですし、また、それなりの知識と経験をもっているはずです。すべての役人が悪さをしているわけではないはずですから、もっとうまく活用できる仕組みを立法側も考え、議院内閣制のよい点を発揮してほしいものです。さもなくば、大統領制をとり、きちんと行政と立法の役割を分けて国を運営してほしいものです。
それにしましても、市町村長にあるリコール制度を首相に適用してほしいものです。

早朝の街風景

私は日中、他人と会って打合せをしたり、インタビューを受けたり、収録があったりと、忙しいので、メールを読んだり、資料を読んだり、ブログや原稿を書いたりするデスクワークは、早朝にしています。別に働き者だからではなく、夕方から夜にかけてデスクワークをしたくないし、また、パーティや宴会があって、物理的にできないからです。5時から男ならぬ、6時から男の毎日で、夜は11時に寝ないと、次の日早朝に起きられません。ハメをはずすのは、年に5、6回です。ですから、朝5時、または5時半に起き、朝の生活、風呂に入り、歯を磨き、食事をとり、時間があれば掃除や洗濯をするなどして、家を6時半には出て、オフィスに7時前に着きます。研究室に入り、そこの掃除をしたり片付けをしても、7時には仕事に入ります。
家とオフィスのあるビルがとても近いのでうれしいのですが、毎朝、同じような街の風景を見ます。びっくりするくらい同じ風景です。朝早いので、ごみ収集車と駐車違反取締りの人は来ていませんが、自転車を整理している人、交番の巡査、道路を掃いている人は、いつも同じです。地下鉄の駅から上がってくる人、すれ違う人、学校の校門の前で扉が開くのを待っている生徒、小走りの女の人、学生は、いつも同じです。
一番驚くのは、通りに面している家の前にイスを出して座っているおばあさんです。ひとりひとり前を通る人に挨拶をしています。名前も身元も知らないのですが、私もつられて挨拶します。ちょっと恐いのは、そこにいなくなる日がいつかくることです。

方言

「ダイドードリンコ 日本の祭り」も、私が参加しまして今年で7年目です。すでに、150以上の祭りが取り上げられました。私も、その中の4分の3くらいは参加しています。どの祭りもすばらしいのですが、特に、祭り人の情熱、すなわち想いのすごさに感動します。
地方を回ってみて一番びっくりするのは、方言がまだ生きていることです。当然のこと、年配の人により強いです。こっちの言っていることは向こうの人にはわかっていただけるのですが、向こうの方のおっしゃっていることがわからないのです。初めのうちは、2、3度聞き返したり、意味を尋ねたりしますが、回数を重ねると失礼になると思い、そのまま相づちを打っていると、いつの間にか内容を見失ってしまいます。
ある時点で重要単語を聞きそこなうと、それ以降全くわからなくなるのは、外国語と同じです。外国語でも英語の場合、修飾語が前にあり、後の名詞にかかっている場合はいいのですが、フランス語やアラビア語のように、修飾語が後ろにあるのは、見失うケースが多いです。日本語は、前にあったり後ろにあったりで、かえって難しさが増します。
しかし、方言というものはいいですね。話している人が生き生きとしていますし、その言葉に歴史を感じます。外国語にもみな方言があり、それをその国の人々は誇りに思っています。日本人にとって方言を大切にすることこそ、日本文化を守ることになると思うのです。

夏休み

7月中旬から9月中旬は、世の中的には夏休みとなっています。特に8月中旬はお盆休みとよばれ、お正月と4月末から5月初めにかけてのゴールデンウィークと並んで大型連休となり、日本列島、人の動きが激しいです。
私は日本にエジプトから戻って以来、ここ30年以上休みという休みがないので、こうした休みのときの空港や駅の混雑に迷惑しています。さすがにこういうときに車に乗ってどこかに行くということはないので、50kmとか60kmの高速道路の渋滞にあったことはなく、その状況はわかりません。
しかし不思議に思うのは、毎年毎年決まって混雑することがわかっていながら、なぜその日に集中するのかということです。私は仕事ですからやめるわけにはいきませんが、休暇の人は日を選べるはずです。なのに、どうしてなんでしょう。もしかすると、そういう雰囲気が好きなのかもしれません。逆境の中に生きがいをもつのでしょうか。自虐的なのでしょうか。会社が、一斉休暇しか認めないというのでしょうか。学問なんて遊んでいるようなものを正業にして食っている私に、こんなことを言う資格はないと言われるかもしれませんが、不思議です。
子どもは天下の宝物という考え方は賛成ですが、この休み中に飛行機や新幹線に乗っている悪ガキには、そういった高尚な気持ちをもてません。もちろん大半は親の責任でしょうが、どうしてあんなにひどいのでしょう。まず親の言うことを聞きません。ドタバタ走り回ります。「ギャーギャー」泣き叫びます。これは社会のコストだと言ってしまえばそれまでですが、飛行機の中で書きもの(今もそうですが)しているのに、前の席の「モンスター・チルドレン」は、椅子をがたがたさせて騒いでいます。母親は寝ています。かと言って怒りでもすれば、逆ギレした母親から反撃されます。何とかしてほしいですね。お母さん、お父さん。でも、一人旅の子どもは騒がないことが多い気がします。それも不思議です。親と一緒の子には甘えがあるのでしょう。そして、しつけをしない親、世の中を甘く見ている親、子どもが少ないので何も言えない社会の人。この方が、少子高齢化より問題です。
先日、飛行機のプレミアムクラスで子どもがうるさかったのですが、私も含めて、周りは誰も怒らず我慢していました。ところが、降りるときにその親は、キャビンアテンダントだけに「うるさくしてすみません」と謝ったのです。キャビンアテンダントは仕事ですので、「いいえ、お元気でいいですね」とお世辞を言うのです。おかしいと思いませんか。夏の旅行はこんなのばかりです。

最近の歯医者事情

今、私は人生で初めて歯の治療をしています。もちろん、インプラントという入れ歯を入れたことはあります。それは、虫歯で歯が欠けてということではなく、湿ったおせんべいで歯を割ったり、乳歯が抜けずに取ったということで、2本代えたのです。
しかし今回は、下の左奥歯と上の右奥歯が痛いということで、近くの歯医者さんに行ったところ、歯周病の疑いがあるとのことで、毎月1回治療に行っています。毎食後の歯磨きを丁寧にし、歯間ブラシでいつも歯と歯の間を磨いたりと、人生で初めて歯を気にしています。歯は丈夫で、死ぬまで大丈夫と思っていた私としては、かなりショックでした。
お医者さんの私への話の感じでは、年内に抜歯するしかないようです。抜歯そのものはいいのですが、これを機に、一気に老けこむのではないかという恐れを感じています。老いると、眼、耳、歯、足、と徐々に衰えていくといいます。眼はいいのですが、足のひざは、60歳を越えて痛めました。耳は、耳垢がたまって聞こえなくなったことが1度ありまして、その後きちんと耳そうじをしています。
問題は歯です。今、せんべいを始め、硬いものは噛めません。なんとか抜歯せず自前の歯で食べたいと、毎日がんばっています。
つい最近、テレビで最近の歯医者さん事情なるもの特集していたのをたまたま見ました。歯医者さんの数が増えて過当競争になっていること、そのために歯医者さんたちが生き残りをかけて、いろいろな試みをしているらしいのです。
その一番が、予防、つまり虫歯になる前に防ぐよう指導したり、ケアをしたりすることだそうです。さらにお年寄りのために、移動歯医者さんというサービスをやっている方も紹介されていました。
まさに私もそのトレンドにはまっている一人なのです。私は治療もさることながら、予防のために、毎日、歯間磨きに励んでいます。そして毎月1回、歯医者さんに通っているのですから。

スポーツ・タレント候補について

今回の参議院議員選出選挙に、たくさんの現役または元スポーツ選手やタレントの候補予定者が出ると、スポーツ紙だけでなく新聞、雑誌、テレビなどで報じられています。最近の産経新聞の調査では、①安易なタレント候補者の擁立はやめるべきだと思うかというアンケートに、96%の人がやめるべきだと答え、②タレント候補に投票するかという質問に、98%の人がNOと答えている、と伝えています。もし、これが実際に投票に反映されれば問題はないのですが、おそらく、選挙後「えーっ!」という結果が出ると思うのです。
ともかく、国民はミーハーだとしか言えないくらい、過去の有名人、タレント、スポーツ選手が国会議員となってきています。職業選択の自由、投票の自由という、自由という点だけを言うのなら問題ないと思われるのですが、少し違うと思います。有名人というのは、それはそれなりの才能を持ち、結果を出してきたからこそ有名になったわけです。しかし、マスメディアはその人を、その人が結果を出した面でのみ取り上げ、国民に紹介し、国民を勇気づけたのであって、他の面-ここでは政治力-に関して取り上げたり、ほめたりしたわけではないのです。野球選手として成績を上げたのであれば、野球について認めたのであり、その有名度を利用して他の仕事につくのはちょっとおかしいのです。ところが、大衆は騙されてしまうのです。
確かに、立候補者のポスターを見ても、立候補の趣旨を読んでも、立会演説を聞いても、わからない人が多くいます。となると、頼まれたり知り合いだったりする以外は、テレビによく出ている人につい投票してしまいます。しかし有名人と無名人では、ハンディがありすぎます。必要資金の額で言えば、億のつくくらい違うのではないでしょうか。この手の論争で、「有名無名に関係なく、政策を持ち、政治を勉強しているなら、いいではないか」という論がありますが、空論です。
私も14、5年前に誘われたことがありますが、お断りしました。その理由は、(1)エジプト考古学では一流になれる自信があるが、政治ではせいぜい評論どまりである、(2)政治をやる人はたくさんいると思うが、エジプト考古学に私財をなげうってやる人は私しかいない、(3)私がテレビに出たりして名を売っているのは、エジプト考古学のためであって、それで得た知名度を使って政治に出るのは、倫理観がなさすぎる、というものでした。今でも変わりません。
その当時テレビに出ていて有名だった人の中で議員になられた方は、それぞれそれなりに活躍されていますから、きっと素質があり、よく勉強されたのだと思いますが、必ずしも初志を遂げずに消えた方もいらっしゃいます。どちらにしましても、公正さという点では間違っています。100m走の駆け足で言えば、有名人は50m先から走り始めるような感じです。すなわち、民主主義の3大要素のひとつ「自由」に次ぐ「平等」に反するわけです。
そして「民主」について言うならば、私たちは「民主」に量と質があることを忘れているのではないでしょうか。今、みな「量」に重きを置いています。「量」とは、得票数のことです。しかし、そこには必ず「質」が伴います。すなわち、その人物をきちんと知っているか、今回の参議院議員選出の意味を知っているか、その人物は政治をきちんと理解しているか、ということです。
よく立候補の趣旨に、いろいろ自分の思いや政策を主張している人がいますが、きちんとした選挙人は、「そんなこと言ったって、採決のとき党の縛りをかけられたら、自分の意志なんて関係ないでしょう」ということを知っています。要は、衆議院でも参議院でも、議員という職業は、所属する党の利益を守るべき、法律成立の投票人である立法人なんです。
もし国民が前述したこのアンケートのように思っていて、投票に反映したら、私はまだ日本は捨てたものではないと思うのです。「自分のスポーツでの体験を政治に生かします」なんて、100%あり得ないでしょう。と言うのは、議員というのは、1票にしかすぎないのですから。

再び禁煙について

5月9日は呼吸の日(語呂合わせです)というのだそうで、テレビ番組でもいくつか禁煙の話題が出ていました。ただ、みなタバコを吸っている人に、健康に悪いからやめなさいというコンセプトです。タバコの害を、これでもかこれでもかと、映像、実験、お医者さまの証言で示すのです。
しかし、そんなことをいくらしても喫煙者は止めません。喫煙は嗜好と思っている人が多いようですが、私の考えるところ病気だと思うのです。一種の肉体と精神を同時に傷めている、かなり重症なものでしょう。タバコを吸っているほとんどの人は、タバコは健康を害していることを知っています。タバコを吸わない私にしてみますと、私の前でタバコを吸うのは犯罪に限りなく近いと思っています。受動喫煙というやさしい文言で言われていますが、私が病気になる可能性がわかっていながら吸うわけですから、カッとなって殴るよりも悪質だと思います。
はっきり申しまして、喫煙者が病気になられるのはお気の毒ですが、それを知った上で、いろいろな理由、例えばタバコをやめると太る、イライラして他人にあたる、うつ状態になる、めまいがする、不眠症になり仕事に差し支える、などをあげて吸い続けるわけですから、たちが悪いわけです。しかし、自業自得ですから仕方ないわけですが、その方に関係のない私を巻き込むのはやめてもらいたいわけです。
タバコを吸う人は、その身体から臭いがしているということに気付かないのでしょうか。タバコの値上げ論が出ますと、1000円ならやめるとか、700円までは吸うと言っている喫煙者がいますが、おかしいです。喫煙者で一番嫌なのは、路上喫煙と歩行喫煙です。そういう人が環境問題を語ってはならないのです。
ともかく、世のニコチン中毒者の方に申し上げたいのは、他人に害を与えるのは犯罪ですということです。15世紀まで、私たち旧世界の人はタバコを知らなかったわけです。人類500万年だとすると、499万9500年吸っていなかったのに、なぜ吸っているのだと申し上げたいのです。私は政府に、シンガポールのようなタバコ排除の法案を作ってくださるようお願いしたいです。